人間・稲津久

心を知り動くのが、稲津の真骨頂

 九九年、稲津にさらなる転機が訪れる。
「この空知を代表して、道議会に出馬をしてもらえないか」――最初は冗談かと思った。事務長として五年。ここまで育ててくれた人々への恩返しのため、病院改革もいよいよこれからが勝負と決めていた時だった。悩んだあげく、一番自分を厳しく育ててくれた当時の病院長、中野重雄理事長(故人)に相談。おそらく、病院のために断れと言われると思った。しかし、「嬉しい話じゃないか。この地域のために一緒に歩きたいが、八十歳を超えたこの体じゃな」。そして、「いつもおれと一緒だぞ」と、革靴をプレゼントしてくれたのだ。
   激闘の日々が始まった。自分を支えてくれる人々のため、この空知のために、選挙区中を走り抜いた。結果、公明党初挑戦でトップ当選。地元芦別ではなんと投票者の六割以上が稲津を支持してくれた。
「稲津を選んでよかったと思ってもらおう」。決意と感謝の涙が溢れた。思い出の革靴はすでにすり切れていた。
 二〇一二年まで、三期一〇年間の道議、二〇〇九年からの衆議院議員として、稲津は地球十三周半(地球一周は約四万㌔)を走り抜いた。

 稲津は、病院事務長の経験を生かし、「生命を守る」医療・福祉政策に力を入れた。まず、働きながら准看護師から正看護師への移行教育を受けられるよう、通信教育やスクーリングのカリキュラムを整備。准看護師と正看護師の間には、待遇面で大きな開きがある。生活と仕事のギャップに不満を感じ、辞める人も多い。道議会で侃々愕々の議論をし、働きながら学べる正看護師への移行教育を実現。准看護師は快哉をあげた。また、道議会公明党が一丸となって、北海道に一機しかなかったドクターヘリを新たに二機配備させた。

 昭和の終わりから平成の初めにかけて、北海道では軒並み炭鉱が閉山。疲弊する産炭地域を支えるため、公明党の国会議員と連携して、財政支援を図った。夕張市の財政再建のための基金創設や、当時の「空知産炭地域総合発展基金」の不適切な処理に伴う問題には、心血を注いだ。
「日本のエネルギーを支え、多くの人命も落としてきた産炭地域が、政策の転換で疲弊していくのを見過ごすことはできなかったんです」
問題の大きさは、一道議会議員が解決できるようなレベルではなかった。しかし、住民のことを思えば諦めるわけにはいかない。稲津は単身、東京に乗り込み、公明党の先輩国会議員や関係各省庁に喰らいついた。
困り果てた市長たちの顔が、四六時中、脳裡に浮かんでくる。
「国を支えてきた町を、見殺しにはできません!」
そう心に決めたときの稲津は、テコでも動かない。答えが出るまで絶対に匙を投げないのだ。〝柔〟ではなく、〝肚〟が据わっている。そこに、政治家・稲津久の真骨頂があった。
優しい笑顔と、ソフトな物腰の奥にある、人々を驚かせるほどの強い信念。こうして稲津の体を張った闘いが、「基金の全額活用可能」という結果を導き、産炭地自治体の連鎖破綻をくい止めたのである。