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人間・稲津久

両親が味わった 戦争の苦い記憶


 一九五八年(昭和三十三年)、衆議院議員・稲津久は北海道芦別市に生まれた。昭和三十三年といえば、夕張や芦別をはじめとする炭鉱町は大変な活況を呈していた。当時の芦別市の人口は現在の約四・五倍の約七万五〇〇〇人にのぼる(現在の芦別市の人口は約一万七〇〇〇人)。

 納豆製造業を営んでいた両親のもと、稲津は四人きょうだいの次男として生まれた。時は一九五〇年代後半。日本のエネルギーを支えていた活気ある炭鉱町では、白黒テレビや洗濯機、冷蔵庫の、いわゆる「三種の神器」を皆がこぞって買い求めた。まさに映画「ALWAYS 三丁目の夕日」に描かれるような、賑やかな子ども時代を過ごした。
 稲津の両親は、二人ともサハリン(旧樺太)からの引き揚げ者。太平洋戦争の苦い記憶について、両親は多くを語ろうとはしなかった。

 サハリン生まれの父・弘は、人間魚雷の訓練中に、終戦を迎えた。戦争がさらに長引けば、人間魚雷として息絶えていたかもしれない。同じく母・フジ子は、引き揚げ後、開拓民として日高の山奥の農地開拓に従事した。しかし蕎麦さえ取れない苦しい暮らしが続いたという。
 稲津は最近になって、「一緒にサハリンに行くかい?」と母に尋ねたことがある。しかし母は、「二度と戻りたくない」と静かに答えた。
「青春時代に経験した戦争のむごい記憶は忘れたいんだと思います」
 北海道には、稲津の両親のような引き揚げ者が大勢いる。サハリン二世の稲津にとっても、旧樺太については郷愁に似た思いがあるそうだ。北海道議会議員時代の二〇〇七年、稲津は北方領土返還交渉団の一人としてサハリンを訪れている。


 「北海道からサハリンまで飛行機で一時間半。その距離の近さを実感しました。それにサハリンには、戦時中の日本の建物が今でも残っています。特に私のような引き揚げ二世には、サハリンや北方領土から目を背けるわけにはいきません」
父は、大胆な発想の持ち主だった。納豆工場に勤務した後、なんの伝手もないなか、一家で芦別市に移り、納豆製造工場を営む。ところがある日突然、「儲けが一円、二円の納豆を作って売るより、車の修理をした方がはるかに儲かる」と、自動車の修理工場を始めたのだ。
順調に思われたが、一九七三年(昭和四十八年)、第一次オイルショックが日本を直撃したことで事態は急変。自転車操業の父の会社は倒産し、工場は人手に渡った。


 一従業員となった父は、それでも四人の子どもたちを育てるために必死で働いた。その父を支える信念強き母。「サハリンからの引き揚げ、戦後の開拓の苦労に比べればたいしたことはない」と、子どもたちに不安を与えることは一切なかった。どんな厳しい状況の中にあっても、自らの信念を通し抜く両親の姿は、稲津の人間形成の原点となっている。